おかやまアナウンス・ラボ株式会社 代表取締役

森田 恵子

地元で知名度抜群のアナウンサー、森田恵子氏(軍師アカデミー第2期生)。大学生時代から地元メディアに出演し、地元民間放送局へ入社すると、その入社日から朝の情報番組キャスターとして表舞台で活躍した。現在は独立し、フリーとなっているが、今もFMラジオの長寿番組でレギュラーを担う森田氏の声は多くの岡山県民の日常の中に根付いている。

そんな森田氏だが、実は、その知名度や存在感が生み出す葛藤と戦い続けてきたという。その葛藤を抱え、挑戦する中で軍師アカデミーと出会い、参加し、自分自身の在り方を確立した森田氏。そのプロセスこそ、軍師が提唱する成長回路の実践に他ならない。

今回、森田氏にその歩みの現実を伺った。

軍師アカデミーに参加する前のこと、修了後のこと、自分自身を襲った想定外の出来事、それを経て今想うこと・・・実際に歩んできた現実とともに、私たちの大切な軍師仲間:森田恵子氏を紹介したい。

森田氏と放送業界の出会いは中学生の頃に遡る。転校が多かった森田氏は、学校で孤独さや理不尽さの中で押しつぶされそうになり、未来への絶望を拭えない時期があったという。そのとき、森田氏を救ってくれたのがラジオだった。

自分の想いをラジオに届け、受け止められ、光を見出した森田氏は、恩人的存在の「放送」の世界に目を向けた。「放送部」の活動が盛んな高校に進学し、高校2年生で「NHK杯全国高校放送コンテスト:アナウンス部門優勝」というタイトルを手にする。

大学生時代には地元放送局の番組に出演し、卒業後には地元放送局に就職して即戦力のアナウンサーに。TVへの露出も多く、傍から見れば順調そのもののキャリアに思えるが、この頃、既に森田氏の中で違和感、葛藤が生じていたそうだ。

その違和感、葛藤とは・・・「アナウンサーであることがもたらす現実」と「自分自身が望む自分」とのズレだった。

アナウンサーとして知名度が上がると、アナウンサーとしての自分が独り歩きする。そこには、自分そのものではない自分が生まれ、時には周囲から「30代半ばになると仕事がないよ」という声も聞こえてくる。アナウンサーの自分が全てではないのに、勝手に枠をつけられ、勝手な理屈で自分を否定されていると感じる毎日。その違和感は大きくなっていった。

流れを変えるため、まずは7年間勤めていた岡山の民間放送局を退社した。その後、別の放送局のキャスターとして採用される。そこは表に出る仕事だけでなく番組の企画・ディレクションも担いながらチームで制作を行う現場。民放時代に制作全般(企画・演出・取材・編集など)を体験したことが活かされ、約5年間、さらに実力と実績を蓄えることができた。

そして、2004年春、森田氏はコミュニケーション講師、フリーアナウンサーという個人事業を柱として完全独立に踏み切った。アナウンサーでありながらも、それだけではない自分で活動の幅を拡げたかったのだ。しかし、現実は厳しかったという。

自分が持つ、アナウンサーとしてのイメージは想像以上だった。どんな人からも「アナウンサーの森田恵子」として受け止められる。そのイメージは自分自身が果たしたい役割そのものを矮小化してしまっていた。仕事の声はかかるものの、メディアで知っている自分を呼ぶことそのものが目的であることも多く、現場で質問されるのは業界裏話的なことばかりということもあった。人や組織の育成に深くかかわる仕事、経営に入り込む仕事では呼ばれない。それが「アナウンサー:森田恵子」が直面した現実だった。

その当時、森田氏は自分からアナウンサーの色を消したかったという。アナウンサー:森田恵子としての先入観で自分の存在価値が狭められる。さらには、人や組織の成長を支援したいという自分の新たな仕事に対して、「アナウンサーの仕事が無くなったからだ」という陰口が耳に入ってくる。苦しい毎日だった。

しかし、アナウンサーではない仕事を開拓し、新しい自分の領域を開拓する意欲が森田氏から消えることはなかった。自分自身の力量を高め、新しい自分をつくるために、まずは在局時代に学び始めたコーチングを深めていく。さらにキャリアカウンセリングの学びを開始し、その中で軍師アカデミーと出会った。

2011年、軍師アカデミー(第2期)に参加した森田氏は、「経営×キャリア」の軍師視点を吸収し、改めて自分は何者なのか?何をしたいのか?という大きなテーマと向き合った。

そして2012年、軍師アカデミーを修了した年の7月に「おかやまアナウンス・ラボ株式会社」を設立した。より強くなった自分自身の中に「アナウンサーである自分」と「人や組織の成長回路を支える自分」を同時に重ね合わせ、森田氏らしい歩みの再スタートだ。その後、10年超が経過し、今の森田氏からは自らの役割、仕事の意味への信念と自負がはっきりと浮かび上がってくる。
学びたいし、成長したいのに困っている人や組織がいる。
そんな人や組織に寄り添い、丁寧に耳を傾け、現状や未来を「言葉化」し、コミュニケーションを通して支えていく。
その動きをつなぐのが「言葉」であり「コミュニケーション」。
自分や自社がそのプラットフォームとなり、大切な方々が未来に向けて進める歩みに並走する。

そんな役割を確信した時、アナウンサーである自分に大切な意味づけを行うことができた。紛れもなく、これまで育んできた大切な顔の1つとして自らの軸に位置づけることができた。自分の役割の中で大事な力の源泉となる「言葉」「コミュニケーション」の専門性は、まさにアナウンサーとして経験を積みながら磨いてきた強みそのものだった。その全てと自然体で向き合い、未来へとつなぎ合わせたとき、森田氏ならではの軍師像が確立した。

そんな自分の立ち位置がさらに強くなったのは2019年のこと。実はこの年、森田氏は病を患い、手術と治療で約半年に渡ってフル稼働が難しい状況に陥った。レギュラーとして表舞台で役割を果たす必要性のある仕事だけは何とか進めたが、多くの仕事に携われない事態が発生した。そして、世の中がそのままコロナ禍に包まれた。

苦しい日々の中で問われた自分の存在価値。森田氏は、その中で自分を支えてくれる人たち、自分に期待してくれる人たちのことを肌で感じ取ることができたという。自分が貢献すべき対象と進むべき道を改めて確信し、そこに迷いが消えた。

社会がコロナ禍から抜け出し、日常に戻ろうとしている2023年。森田氏が独立し、フリーとなって18年余り、葛藤の中で自分を固め、軍師アカデミーを終えて法人設立して約11年が経過している。今では自分や周囲からも「アナウンサー:森田恵子」の呪縛が消えつつある。自分の中では「アナウンサー:森田恵子」も誇るべき自分の顔の1つとして消化され、今から描く未来へと進む力が沸き起こってくる。

時にはアナウンサーとして、時には人や組織の成長を支えるサポーターとして、時には全てを含む軍師として、森田氏は今も未来へと向かって歩み続けている。後進も育てつつ、自分に期待する人たちに応え、大切な誰かとともに歩む軍師:森田恵子氏。そこから森田氏ならではの価値が生まれ、これからも多くの未来づくりに吸収されていくに違いない。

<参考リンク>
おかやまアナウンス・ラボ株式会社 公式サイト http://announce-lab.jp/


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Interview

Q. 傍から見れば華やかなメディアの世界で光を浴びる職業のアナウンサー。その職に就く時点で周囲からは羨望の眼差しを向けられることも多かったと思います。しかし、森田さんはそこに留まろうとはしませんでしたね?

はい。私は中学生の頃に某ラジオ番組に救われ、放送の世界を目指しました。苦しい就職活動の最後に運よく採用され、アナウンサーの職に就くことができましたが、入社してからは自分と周囲の認識のギャップを感じることが増えていきました。

アナウンサーとして期待されていることと、自分が仕事を通してやりたいこととの間にはギャップがあったのです。必然的に葛藤や戸惑いも大きくなっていきました。特に20代は周囲を気にし過ぎる時期だったのでしょう。当時の時代背景や風土が言わせたのであろう、周囲からの「30代になると仕事無いよ」という言葉や、ジェンダーギャップを感じてしまう言動などに対して猛烈に反発心を抱いていました。


Q. 入社7年後に民間放送局を退社した理由はそこにあったのですね?

もっと仕事の幅を拡げたかったのです。その後、縁あって別の放送局のキャスターに就任し、そこでも表舞台だけではなく裏舞台で番組制作に深くかかわり、自ら企画やディレクションを担いました。アナウンス以外の力、可能性をその時期に見出しました。


Q. 2004年には独立され、コミュニケーション講師とフリーアナウンサーという複数の顔で活動開始されました。今に至る多様な学びを本格化させたのもこの頃でしょうか?

はい。アナウンサー以外の領域も求めて独立しましたが、多くの人にとって当時の私はアナウンサーでしかなかったのです。仕事で期待されるのはアナウンサーとしての自分や放送業界人としての自分です。別の側面から人や組織の成長を支えようとしている自分を期待してくれる人は少なく、問題の本質に踏み込む局面では呼ばれさえしませんでした。

当時、私はアナウンサーとしての色を自分から消したいという衝動に駆られました。アナウンサーとしての技術ではなく、自分自身で手ごたえを感じる力を強く求めました。アナウンサーではない仕事を開拓するために、コーチング、キャリア、さまざまな学びに取り組みました。それらを経由し、ついに出会ったのが軍師アカデミーでした。


Q. 軍師アカデミーでの「経営×キャリア」の学びは森田さんにとってどんな意味がありましたか?

まず、自分が持っていなかった「経営」の視点を総合的かつ本質的に吸収できたことに大きな意味がありました。私が本当に果たしたい役割、企業との伴走を考えたとき、経営の本質部分を共有できるだけの見識が必須でした。

しかし、もしかすると、当時の私にもっとも必要なことは、自分自身と向き合い、自分が何者であるか?という命題と向き合い、自分らしい答えを見出すことだったのかもしれません。冷静に考えれば、嫌っていた「アナウンサーとしての自分」も価値ある自分に他なりません。自分ならではの強みです。そのことを消化し、自分自身のキャリアと向き合い、そこに経営の要素を掛け合わせる。まさに軍師アカデミーが大事にしているプロセスそのものです。当時、そこまで自分を客観視できていたわけではありませんが、実は自分に対して軍師力を発揮しようとしていたのかもしれません。

結果的に、軍師アカデミー修了の数か月後に「おかやまアナウンス・ラボ株式会社」を設立し、今につながるキャリアの扉を開けることになりました。


Q. その時から約11年が経とうとしています。その時間の中で見えてきたこと、変わったことはありますか?

当時描いたこと、目指す方向性そのものに変化はありません。ただし、自分が本当に大切にしたい対象や、自分ならではの支え方という点は遥かに鮮明になり、そこに手ごたえを感じています。

仕事としては今もさまざまな方たちとご一緒させていただく中で、私たち(おかやまアナウンス・ラボ)だからこそ支えられる対象がいることに気づきました。

より丁寧に、より個別に、近くに寄り添い、ともに考えながら支えてくれる存在を必要としている人たちがいます。現実的に、大手のサポート企業の仕組みでは、そこまで親身な支えをすることが難しいことが多いのですが、私たちは一人ひとりと丁寧なセッションを行い、継続的に寄り添います。支援対象の状況や想いを「言葉化」し、その言葉を介したコミュニケーションの力で持続的成長を支えます。実は、そこにこそアナウンサーとして「言葉」と向き合い、力を磨いてきた自分自身の強みが生きていることを再認識しました。

Q. 自分は何者なのか?自社は何者なのか?が明確になり、それこそが力の源泉となっていくプロセスは、まるで軍師流支援の仕組みをそのまま辿るかのような流れですね。その境地に到達したのはいつ頃ですか?

大きなキッカケとなったのは2019年、コロナ禍が社会を包み込むよりも少し前のことです。実は、このとき、私は病を患いました。手術と治療で約半年間、周囲の助けで何とか苦境を乗り切る毎日が続きました。当たり前にできていたことができなくなる時期となり、仕事面でも周囲との関係性も変化せざるを得ません。世の中はそのままコロナ禍で揺れる時期に入り、本当に大変な時期ではあったのですが、だからこそ、自分にとって大切な誰かのことを意識することができました。自分に期待され続けること、自分が果たしうること、やりたいことを考え抜く時間にもなりました。

今では自分ならではの軍師像や、その中に育んできた自分の力の源泉に確信を持つことができています。

Q. かつて、アナウンサーである自分の色を消したいとまで思われた森田さんですが、そんな森田さんはもう心の中から消えましたか?

消えたというよりも、その揺らぎも含めて自分の中で消化されているのかもしれません。かつて揺らいでしまった弱さも含めて自分の一部ですから、そんな自分も大事にしたいと思います。ただし、今はアナウンサーとしての自分にも誇りを持つことができますし、そんな自分だからこそできる軍師の役割があるということにも気づきました。

幸いなことに最近は私に対してアナウンサーという先入観をもつ人ばかりではなくなってきました。自分らしい軍師像、言葉とコミュニケーションによるプラットフォームを提供し続け、成長回路を支える存在として、これからも進んでいきます。やっと、ありたい自分と周囲から求められる自分の距離感が心地よくなってきたわけですから。

Profile

おかやまアナウンス・ラボ株式会社 代表取締役。
株式会社瀬戸内海放送(KSB)アナウンサー、日本放送協会(NHK)岡山放送局キャスター等を経て独立。軍師アカデミー講座2011(第2期)修了後、2012年7月に「おかやまアナウンス・ラボ」を設立。フリーアナウンサーとしての活動とともに、「言葉」の力を活かし、自らの人生の柱とする「コミュニケーションを中心とした人財育成」の活動領域を開拓してきた。県内の大学では、口頭表現や日本語表現、キャリア教育の講義を長年担当。ライフワークとしての朗読活動、その他文化活動にも注力を続けている。

1985年 NHK杯全国高校放送コンテストアナウンス部門優勝、NHK会長賞、文部科学大臣奨励賞受賞
1987年 ミス結城紬全国グランプリ
2004年 岡山きもの文化人(びと)岡山県知事賞
【番組制作での受賞】
1994年 テレメンタリー優秀賞(共同企画)
2005年以降 日本民間放送連盟賞中国四国地区ラジオ部門 優秀賞(5回・共同企画)